にっきっ記

気軽に書いてる日記です。お気軽にどうぞ。

うひょひょのひょ

元気野菜とは、土と太陽の力を自分の力に変えて、病原菌、害虫、紫外線、風、雨、霜、高温、その他周りのあらゆる障害を「自力で」乗り越えて生きる野菜のことです。これらの障害にさらされたとき、それでも死にたくなくて強くなろうとする力、それが生命力というものです


(『生ごみ先生の元気野菜革命』吉田俊道著より抜粋)


うおお!おもしれー!

人間も一緒じゃないすかね、先輩!


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いただきマンモス!

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暑いですなあ。


そら、夏ですから。


夏だと暑いですか。


そらそうですわ。夏少年が来ておりますから。


夏少年?


はい。


夏少年というと?


あぁ、冬に冬将軍っていうのが来るでしょう。


はい。


彼の親戚です。


はあ。


冬将軍が親戚の家にお邪魔してる間、こっちには夏少年が来るんですよ。


はあ。なぜまた。


冬将軍が帰らないんですよ。親戚の家から。


はあ。


そいで冬将軍のおじさんは大人の話ばっかりしてて面白くないし、家にずっといるしで嫌になっちゃってね、少年の方は夏になると家出しちゃうんです。


はあ。


毎年。


 はい。


それが夏です。


へええ。

ボエミアンラプソディーを聴きながら


                              山山

                              ・・       {   うおっほん! )

                               川

                           里里里


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ロジカルなダイヤリー

 僕はよく、上手なギター弾きの演奏を聴いたときに「あ、これはかなわねぇ。」と思う。同様に、上手い文章を読んだとき、すばらしい絵を見たときなんかも「あ、これはかなわねぇ。」と思う。きっと誰しも似た経験があると思う。相手が自分よりもずーっと深い次元にいるという感覚。特に自分にとって興味がある分野においてはよりいっそう強く感じることと思う。

 

 人は誰しも生活する中で、自分なりの落としどころを持っている。例えば「賞味期限切れの牛乳がある。もったいないから捨てたくないけど、食中毒にはなりたくないから加熱してから飲む。」とか「虫が苦手。でもバルサンは焚きたくない。だから虫がわかないように毎日しっかり掃除する。」とか「太りたくはないけど、肉や甘いものは好きだから食べる。でも、寝る前2時間は何も食べないようにする。」とか。食中毒のリスクを0にしたければその牛乳は飲まなければいいし、絶対に虫が湧いてほしくないならバルサンを焚くか無菌室のようなところに住めばいい。太りたくないのなら肉も甘いものも食べなければいい。でも多くの人はそれをしない。「これくらいならいい」という自分なりの落としどころを持っているからだ。上の例を用いてこの感覚を図で表すと、こうなる。


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 太りたくない、という思いから始まり、「でも肉や甘いものは食べたい」で折り返し、「じゃあ、寝る前2時間は何も食べない」で再び折り返す。矢印は、折り返しをくり返しながら、深みを持ってゆく。この矢印の位置がこの人にとっての「食」に関する落としどころの深さだ。もっと落としどころを深めないと気が済まない、という人はきっと「甘いものを食べてもいいけれど、1日あたりの量を制限する」とか「肉にしても脂肪分の高いものはひかえる」とか、いろいろと、さらなる深さを持った落としどころをつけていくだろう。

 また、当初「太りたくない」という思いから出発したが、食に関することを調べていくうちに、食べ物の中には、生産性を優先した結果、身体に負担をかけてしまうものがある」ということを発見するかもしれない。そして「じゃあ、身体にいいものを食べたい!」と思う。こうなると、新たな落としどころ探しの旅が始まる。「太りたくない!」という矢印に加え「身体にいいものを食べたい!」という矢印が現れるのだ。平面だった考えが立体になる。食に関して得た知識を実生活に落とし込み、自分なりの落としどころをつけてゆく。こうして、食という大きなジャンルに関する自分なりの見方が出来上がる。

 ずいぶんと前置きが長くなった。冒頭の、相手が自分よりもずーっと深いところに到達しているという感覚は、きっと、相手の落としどころを

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こんなふうに感じたり

 

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こんなふうに感じたりして、

 

その深さや広がりに対し、自分の持っているそれよりもはるかに豊かであることに驚いているからなのだろう。

 

 ところで話は変わりますが、面白いブログを発見しました。



http://holozoa.hatenablog.com

ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。



映画の感想を数式にされていたり、科学的に考察されたりしています。映画や物語を対象にして、それをロジカルに読み解いていく彼の文章は、読みやすく、それでいて新鮮で気持ちいいです。河合隼雄という、元数学教員という経歴を持つカウンセラーであり、文化庁長官にもなった、愛嬌のあるおじちゃんがいるのですが、彼の文章を読んでいると、河合さんの文章を読んだ時と似た感覚を覚えます。その文章に含まれる、さまざまなジャンルに関する知識の幅広さ・深さと切り込みの鋭さは僕より遥かに深く、僕はブログを読んでいて「これはかなわねぇ」と思うのでありました。

そこは朝食の写真を

朝目覚める。


聞いたことのない鳥の声。


窓を開ける。川の水かさが増えている。きっとこの前の雨のせいだろう。今日は陽射しが強い。ようやく夏の陽気になってきた。


昨日水につけておいたご飯に火を入れ、同時に鍋にお湯を沸かす。沸いたお湯は2つに分ける。一つはお味噌汁のため、もうひとつはおひたしのためのもの。今日のお味噌汁には何を入れよう。あ、さつまいもがまだある。冬に買ったものだ。くぼみから、小さな紫色の芽が出ている。これを使おう。味が落ちてしまったかもしれないと思いつつ火を通し、お味噌も入れ、味見すると、甘い。味噌の塩気がさつまいもの甘さを引き立てている。うむ。うまい。


埼玉で採れたという小松菜「いるま野」も茹でてから氷水でアクを取り、しょうゆと出汁で洗ってから味をつける。ぱくっ。静かな味がする。うまい。


あとは鯵の開き、玄米、だしガラ佃煮。今日も元気でいられることを感謝して、いただきま〜す!


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どーん!



今日は死んでしまう夢を見た。



車にはねられてだか、心臓が止まってしまってだか、夢だから途中で変わってしまったりしたけれども、とりあえず、若くして死んでしまったのだった。日付は7月1日であった。


死んでしまったので、棺桶やらの手配は両親がやってくれた。


死んでしまって、僕は人の殻を脱いで、命そのものの状態になった。大きな命から小さな命になった。アリくらいの大きさ。


僕は死んでしまったんだけれども、周りの生きている人は悲しんでいるというよりも、無理しちゃったんだねえ、とゆったりとした様子であった。