にっきっ記

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Ho-ko-

 人が育っていくことと、木が育っていくことって似ているなあって思う。別に僕は木について詳しいわけでもなんでもないんだけど、イメージの話ね。

生まれたばかりの人は、クニャクニャで、やわらかいし、小さい。種から芽が出たばかりの木(「木」というよりも、ただの小さい芽だけど)もクニャクニャで、やわらかいし、小さい。小さいけれど、いくらか押されても、風が吹いてもボキッと折れることなく、ふにゃっと曲がる。どの方向にのびるか、いくらでも迷える。赤ちゃんや子供は強めに転んでも、そんなにたいした怪我にはならないのだ。

 大きく育っていくにつれ、こっちに伸びていこう、とか、こっちに枝を張ろうとか思って、なんとなく、どんどん大きくなっていく。やわらかかった芽は大きく、堅くなって、やがて幹になる。人は試行錯誤の中で「こうするとうまくいかないな」とか、「あ、こっちにいきたいな」とか思って育っていく。体は強く大きくなり、出来ることも増えてくる。こうなると、木も人も、強くて大きくて立派だ。立派なのだけれども、困ったことに、取り返しがききにくいのだ。「あ、こっちに伸びたらいかんかった」と思ったところで、その方向に幹を固めてしまった以上、今からそれを変えるにはかなり大きなエネルギーが必要なのだ。あんまり無理に自分を変えようとしたらボキッと折れてしまうかもしれない。あるいは、折れることを想像して、方向を変えることを怖がってしまうこともあるかもしれない。間違った方向にいってしまったかもしれないと気づいても、自分の過ちと向き合うのが怖くて、見ないふりをして、意固地になって、間違った方向のまま、よりいっそう固く大きくなろうとしてしまうかもしれない。

 自分の意思に関わらず、体は大きく固くなっていってしまうのだ。不自由な方向に固まってしまいたくはないし、かといって、固まろうとせず、ふにゃふにゃなままでいようとするのも健全なようには見えまい。

 自分を育てる上で、僕が大切だと思っていることが2つある。ひとつは試行錯誤しながら自分の納得できる方向性を模索していくこと、もうひとつは、育つ方向性が決まったら幹を固く大きくしていくこと。

育つちからは自分の中にあるのだ。

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