にっきっ記

気軽に書いてる日記です。お気軽にどうぞ。

たのしくて、プリティで、ひっくりかえっちゃうような、

今までの僕自身のことを振り返ってみると、ずいぶん色んな事を人任せにしてきたなって思う。

なにかを丁寧につくっていく側ではなく、ちらかす側としてたくさん遊びほうけてきた。そして何かをするにしても、ちゃんと自分で責任を持ってやっていくというよりは、その場を茶化して、ふにゃふにゃっとやってきた実感がある。早い話、僕は色んな人や状況に無自覚に甘えてきた甘えん坊ちゃんなのだ。

で、今さらながら、その場で責任を持って動いたり、決断したりしていく自分というものを育てたいなって思っている。25歳の決断。

そんな自分を育てるうえで、思うことがあるのでそこのところを書こうと思う。

なにかを出来る自分になろうとするのはたいへん結構なこと。でも、たぶんやり方に注意が必要。
よくありがちなのが未熟な自分への劣等感からスタートして、かかげた目標に向かって「変わらなきゃ変わらなきゃ」って思いつつ日々を過ごすこと。そして、出来た自分には○をして、出来なかった自分には×をして、○を増やそうとしていこうとする。

「あることを出来るようになること」だけを目的とするならば、確かにこれは手っとり早い方法だろう。でも、これって、なんだかあんまりワクワクしないのだ。きびしい学校みたいに、頭でビシビシと育てようとする感じ。この順序で育つのはきっと楽しくないだろう。なにしろ、出来ない自分に×をされるのが苦しいだろうなと思うのだ。仮にそうやって出来ることが増えたいったとしても、なんだか不安定で強硬な人間が出来上がるだろうなと想像することもできる。また、僕の場合、楽しくないと実際飽きてしまいそうなのだ。はっきり言って僕は楽しく育ちたい。

どんなことが出来るようになったか、っていう成果物ばかりを僕たちは重視してしまいがちだけど、一方でその過程の部分、つまりどんなふうに自分を育てていくかっていう部分を大事にしないと、きっといきいきとしていけないだう。なにかを出来るようになるならない以前に、僕はいきいきしていたい。

そしてもうひとつ。新しくゼロから作った部分っていうのは自分のなかで一番弱いところだろうし そんなところを今から伸ばして そこで勝負をしようとしても無理がある。 それよりも今の自分の中にあるものの中から丁寧に糸口を探っていけば、パパパパッと開けるチャンネルがどこかにあるんじゃないかな。もちろん一朝一夕の一筋縄ではいかないだろうけど。

自分に×をすることなく、今の自分を認めていきながら育っていけたら、自分を好きなままでいられそうって思うのだよ。自分の中にある持ち味を殺すことなく、生かしながら育てる。育つなかでも、育ったあとでも自分が自分でいることをきっとのびのびとしていられるのだ。

自分の実感を道しるべにして、ゆっくりたのしく育っていきたいですなー。
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