裸にて
つい2日前のことになるが、同居人からゆっくりとした動きで日々を過ごしてみることを勧められた。ちょうど2人で銭湯へと向かい、並んで歩いているときのことだった。
ゆったりと動くことで交感神経優位から副交感神経優位になって、自律神経が整い、無駄にエネルギーを出さずに済むこと、必要なときに力を出す瞬発力が生まれること、落ち着いた振る舞いをすることで他の人から余裕のある人に見えるようになることなどを分かりやすく説明してくれた。とても納得のいく説明でそれはそれでとても良かったのだけれど、ゆっくりとした動きを実際にしてみることで感じられた感動があったので書こうと思う。
それはその行き先である銭湯でのことである。露天風呂にしばらく浸かって体を温めたあと、僕は近くに設置されているイスに裸で寝そべりながら、ぼんやり、ゆったりと過ごしていた。ゆったりと動くことを意識していたせいか、心はとても穏やかだった。静かな気持ちで過ごすうちに、風呂あがりに脈打つ、自分の鼓動に意識がいった。
僕は鼓動を意識するのがどうもあまり好きじゃない。それは普段自然と行っている呼吸を意識することで、変に息苦しくなってしまうのと同じように、自分の鼓動を意識することで脈が変になってしまうんじゃないかとか、そういう恐怖を感じてしまうからだ。泳ぐのをやめてしまうと死んでしまうマグロのように、僕はいつもせわしなく動いてきた実感がある。それは、自分が本当に動きたくて動いてきた訳ではなく、何か、そういう漠然とした恐怖心が根っこにあるような気がするのだ。
ゆったりとした心持ちで鼓動を意識することで、僕は、自分の力の及ばないところで心臓が頑張ってくれていると感じた。これをもうちょっと広げて考えてみると、こうして息を吸えること、食べたものがエネルギーになること、地震もなく毎日平和に過ごすことが出来ていることなど、おおよそ僕が生きるための幾千という土台は、僕の力の全く及ばない所でつくられているわけで、そう思ったら「僕は生かされているんだなぁ」とはっきり感じたのだ。
意識しようとするかしないかは自由なんだけれども、僕は、僕の命を手放しで宇宙にあずけきるしかないんだなと思った。そして、この事実をはっきりと認めたからこそ生まれるものってきっとあるんだろうな、と思っているよ。
ふぁいっ!
モノを言い切るとか、線引きをするとか、毅然とした態度をとるっていったようなことが僕は苦手だから、なんとかそれを変えてみようと、意識的に強い態度をとろうと何回かしてみたのだけれど、そのさじ加減というのはとても微妙なように思います。
というのも、強い態度をとろうとすることにばかり気がいって、ただただ固い態度をとってしまうと、相手に不必要にプレッシャーをかけ、場を窮屈にしてしまうからです。そんな場からは面白いことはきっと起きにくいでしょう。また、僕みたいな人間が意識的にそんな態度をとったら、きっと余裕の無さが伝わって、かえって弱い人間に見えることでしょう。
かといって、自分の主張を出さず、フニャフニャした態度でばかりいると、それ自体が直接誰かを傷つけることはなくても、相手との依存しあう関係につながったり、その場にいる他の人を守ることができなかったりするでしょう。自分自身の気持ちにもきっと無理がきます。
ここのところのちょうどいいさじ加減っていうのが「中庸」ってものなのかなあと思う。
中庸の色合いって、きっととっても美しいと思うのだ。花の色とか、虫の形くらいちょうどいい美しいところがきっとあると思うのだ。
そんなところを気長に、でも果敢に、探っていく!
昨日の学童にて。
昨日、子供とつくった、おっちゃんマシン。
はじめ僕が作ったら、ある子がそれを振り回して壊してしまった。
そしたら別の子が、壊されたことに怒り、嫌だった気持ちを僕にこぼしながらもテープや新聞紙をつぎはぎして【テナガおっちゃんマシン】完成させた。
彼、よっぽどおっちゃんマシンが気に入っていたんだなと思っていたら、完成したマシンを僕にプレゼントしてくれた。平気な顔で。
こんなの、すごいなあと思うのだ。
立派な設備とか、厳しい指導とか、そんなモノなくても、深いところから湧き出てくる命のエネルギーがある。