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にっきっ記

気軽に書いてる日記です。お気軽にどうぞ。

リトル・トリー

リトル・トリー

という本を知っていますか。

アメリカ先住民の血を引くフォレスト・カーターが、幼い頃、祖父母と暮らした山の中での日々を描いたお話です。

 

父ちゃん母ちゃんは死んじゃったし、お金も物も、ろくにない。インディアンっていう理由だけで町の人にあざ笑われる。だけど、幼いリトル・トリーはそんなことを気にもせず、祖父母の愛情や、山に棲む生き物たちの豊かな営みに囲まれてのびのび育っていきます。

 

本を読んだあとは心がすーっと静かになります。

でも、とても元気になります。

あと、山に行ってきたような気分になります。

 

とっても素敵な本なので、ぜひ。

 

においをたよりにすすむのだ。

イライラと戦う!
介護をしているときの自分のあり方は、大きく2つに分けることができる。ゆとりがある時とゆとりがない時だ。これを、流れている時と流されている時とも言いかえられるし、ゴキゲンな時とフキゲンな時とも言いかえられる。とにかく、どうもそんなところで支援者としての自分の態度は線引きをすることができるように思う。

人間、やらなきゃいけないことに追われると余裕がなくなる。余裕がなくなると魅力もなくなる。介護業務に追われると、おじいちゃんおばあちゃんを急きたてるような言動が多くなる。本来守られるべき利用者に業務のしわ寄せがいってしまうのだ。これじゃあ誰の支援をしているのか分からない。生活の主体である利用者を差し置いて介護もクソもないのだ。

文字で書くと当たり前に思われるこんな論理も、いざ現場で実践するとなると結構大変だ。

おじいちゃんおばあちゃん達は脈絡のない話を繰り返したり、飲み物をこぼしたり、ナースコールを押しまくったり、うんこ漏らしたりと、こちらをイライラさせる様々な技を次々と繰り出してくる。力関係は体力的にも知力的にもこちらが大いに優位だ。そのうえ周りには職員の目もない。はっきり言って、相手を力まかせに動かしたり、いじめたりしようと思えばいくらでもできる現場なのだ。

さて、自分を育てるにあたって、このフィールドを生かさない手はない。イライラと隣り合わせの現場でいかに余裕を持っていられるか。支援者としてのあり方を身につけるのに、老人ホームほど適している現場もそうそうないんじゃないかと思うのだ。
いやはや、繰り返しになるけど、こうして文字で書くとカンタンでも、実践するとなるとやはり難しいのですよ。

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つまるところ

「これでいいのだ!」




「こんなんじゃだめだ!」



のくりかえしのような気がしているのですが、みなさんいかがでしょうか。

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ここは景気よく

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たとえば1000年。

1000年は色あせないような、そんな心持ちで生きていきたいですのぉ!

慰問パンチ

高校生に負けた!

今日、僕の職場である特養老人ホームに、近隣の高校生らが「慰問」にやってきた。この「慰問」は生徒による自発的なものではなく、学校のカリキュラムの一貫のもので、3年間の高校生活のうち、30分間、老人ホームへの「慰問」が組み込まれている。

高校生というと、たいてい悩ましげに、あるいは自信なさげにオドオドしている。彼らもその例外に漏れることなく、かつての僕や僕の同級生のように、うつむいて友達とボソボソしゃべり、いかにも心の中で「かったるいな」って思っていそうな顔をしている。そして、その一方で、神経をむき出しにしたような繊細さは持ち合わせており、彼らの近くにいるだけで、こちらにも注意や緊張が伝わってくる。彼らは、そんな様子で「慰問」にやってきたのだった。

高校生たちは、小グループに分かれて、この施設の、各階の各フロアを訪ねてくる。フロアとは、施設の利用者の方々の共有の食堂兼活動スペースである。約10m四方の空間の中に、3つの大きなテーブルといくつかの椅子並べられていて、普段10人の利用者がここでご飯を食べたりおしゃべりしたりしてのんびり過ごしている。このときは、フロアには2人のおばあちゃんがのんびりと過ごしていた。

そこへ7人の高校生男女がやって来た。
7人の高校生らはコソコソ声で相談し、3人─4人に分かれて、それぞれのおばあちゃんを取り囲むようにして座った。

3人の高校生グループの中に座っているおばあちゃんはおしゃべりが大好きな人だ。若者のエネルギーに当てられてテンションが跳ね上がり、戦争の話や故郷の話をものすごい勢いで話している。キレのある関西弁で捲し立てるようにしゃべる様子は圧巻で、とても91歳とは思えない。高校生相手の一方的なマシンガントーク。高校生には撃たれてもらう。何事も経験経験。独特のスタイルではあるがこういう慰問の形もあっていいだろう。

さて、一方の4人グループ。
こっちのおばあちゃんはやさしくて素敵な方なんだけれど、かなり人見知りの方だ。認知症が進んでいるから、コミュニケーションするには少し要領もいる。ジャージ姿の若者に包囲されている状況に、彼女は明らかに困惑していた。

僕は、はじめのうちは、なんとかなるだろうという気持ちで黙って見ていた。ついつい手出ししたくなるけれどこんなのは見守るのが大事なのだ。大丈夫だよ、と温かい気持ちで、僕は流しで洗い物をしている。
……しかし、5,6分経ってもやりとりがほとんど生まれない。30分という貴重な制限時間が刻一刻と削られてゆく。おばあちゃんも高校生らも表情が暗く、双方行き詰まっている様子だ。まずい。このままでは何も起こらず、ただ気まずいままに時間を過ごし、彼らのなかでやがて「何だったんだアレ」というカテゴリの記憶ぐらいにしかならない。いや、きっと一切記憶に残らないだろう。そういう経験も悪くない、嫌いじゃないが、せっかくだったらもっと色んな化学反応起きた方が絶対面白いわ。それが僕の主体性。そんなことを考えたのち、僕は介入することにした。

なんともやるせない顔をしている高校生らを相手に僕は口を開いた。
「こんにちは。調子はどう?」
急な質問に驚く彼ら。少しだけ視線を合わせて黙って苦笑いする男の子、目を合わせずに首をかしげる女の子たち。僕の質問は彼らを戸惑わせているようだ。しかし、そのうちの一人、僕の右手側にいた男の子は、ハッキリと僕の目を見ている。キリッとした眉毛、クリッとした目、パーマがかった少し茶色い髪。つまらなそうに、首を軽く傾けてはいるが、それと同時に、「アンタはどういう人なんだ」というまっすぐの関心が、彼の視線から伝わってくる。彼は、僕の質問に対し、「いや、『どう?』って聞かれても…。」と唯一、反応らしい反応をしてくれた。言葉は少ないがなかなか堂々としている。その様子から、彼は日頃から自分の気持ちを大事にしているんだな、と感じられる。

僕は続けて話す。「初めての場所で初めてのおばあちゃんと話すというのは実際なかなか大変でしょう。30分で交流をするっていうのが、そもそもけっこう無理のある話だと思うけど…。
まあ、それはそれとして、この人たちは、毎日、こんな様子で過ごしています。一緒に過ごしてみて分かったかもしれないけど、みんなとは生きているペースがずいぶん違います。認知症もあって、まぁ、早い話、ちょっとボケてしまっていて、普通に会話することがなかなかムズカシイです。」

そう言った時だ。

おばあちゃんは、僕の言った言葉を分かってか分からずか、「そんなことないわよォ。」と声をあげた。
その時、例の男子高校生がすかさず、「そうですよね、ボケてなんかないよねぇ。」と言ったのだ。まっすぐ、おばあちゃんを見つめて。

僕は彼の一言にガツンとやられた。
僕は、ある程度言葉を尖らせないと高校生には伝わりにくいだろうと思って「ボケてしまっていて」という言葉を使った。本人の前で。キツい言葉になってしまっておばあちゃんには悪いけれど、おばあちゃんはきっと僕の発する言葉の意味が分からないから、まあいいだろうと高をくくっていたのだ。

僕はナメていた。あの高校生はもっと深くてやさしい視点を持っていた。おそらく彼はボケちゃっていると言われた、おばあちゃんの心の痛みを感じたのだ。そして、おばあちゃんのこぼした「そんなことないわよォ」という言葉の中に、その痛みを感じとり、すかさずそれを拾い、彼女を守るべく寄りそったのだ。繊細で、やさしく、堂々としている。彼には媚びる様子がない。大人をナメてかかっている目をしている。しかし、やみくもに大人に反抗して自分の強さを誇示するのではなく、自分が大事に思っていることをまっすぐに実践する生き方をしていた。

くそ、負けた。彼の堂々たる様子にダウンさせられてしまった。
恥ずかしいぜ!でも、ものの本質をつかんでいる若者に感動した!

心の中に、宇宙が宿ってんのさ。

僕らは人間だ。
僕らは人間で、まわりにも人間ばっかりいるから、ついつい人間に重きを置きすぎる。そんなんで窮屈になることが、多々ある。

僕らの祖先をさかのぼっていくと、サルやナメクジウオになるという。そして、さらにもっとずっーとたどれば、最初のいきもの、つまり、みんなの共通の母ちゃんに行きつく。大きい目で見れば、僕らは家族なのだ。種族の違いは、命の燃やし方や問題の解き方、表現方法の違いでしかないのだ。

話をもう1つ大きくしよう。

どうやら、宇宙はもともとひとつだったのだ。

聞くところによると、その昔、アツいアツい火の玉が大爆発して、その後、なんだかんだあって今の宇宙が出来あがったという。説明がざっくりしているかもしれないが、つまりつまり、話は生き物だけにとどまることなく、僕も、君も、イスも、机も、国道16号線も、青空も、さそり座も、もともと1つだったと言いたいのだよ。

僕らは変わり続ける。炎を出して、熱く激しい変わり方をするものもあれば、僕らのように、36.5℃で命を燃やすという変わり方もある。川は絶えず流れて変わり続けているし、コンクリートやプラスチックも、止まっているように見えて実は姿を変え続けている。クロマニヨンズが歌っているように「変わらないものなんか何ひとつないけど、変わるスピードが違」うだけなのだ。

特に町に住んでると「人間しかいないっすね!」って思ってしまって、心まで満員電車のような具合になってしまうけど、顔を上げて、大きなつながりを感じるだけで、心はずいぶん元気になるのだ。

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