にっきっ記

気軽に書いてる日記です。お気軽にどうぞ。

いぇす!

早く目が覚めてしまった朝。
起きぬけなのに、意識はえらくはっきりしている。
布団をかぶって天井を見上げつつ、僕はなぜか自分の死というものを意識してしまうのだ。
「死んだら僕はどうなってしまうんだろう」と考える。そして、やっぱり怖くなる。


自分の身体に意識を向けると、心臓の鼓動によってエネルギーが湧きあがり、循環してくるのがわかる。どうやら、これが、生きているっていうことなのだ。


あと40~50年もすれば、100%の確率で、弱っていって死ぬってことは分かってるのだ。

じゃあせめて僕に出来ることは、「いずれ死ぬんだってことをハッキリと認めて、この湧きあがってくるエネルギーをいい具合に出していく」っていうことじゃないかね。

自分のエネルギーをどういう具合に出すかっていうことに関しては、僕は大統領なのだ!
いぇす!!


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求道ってんだ。

ものごとを洗練させていくために必要なのは、道を探っていくこと。

道を探っていくために必要なのは安易に落としどころを決めてしまわないこと。

安易に落としどころを決めないために必要なのは、変わり続けていく勇気。

変わり続けていく勇気を持つために必要なのは、自分への信頼。

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ホリデー!

今日、文化の日というのは、戦争放棄を誓った初めての憲法が公布されたことにちなみ、自由と平和を愛し、文化をすすめようじゃないかという日なのだね。

こんなにおめでたい、ハッピーな休日は他にないね。憲法解釈の変更とかのごたごたはあるけれど、まずは今あるこの平和をともに喜びあおうではないか。

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あるーく


昨日、ひさびさに台本を書いた。おもしろくて、やさしい内容だと思う。

自分を表現するっていうことは、自分のセンスで勝負するっていうことなのだ。

自分のセンスで勝負するっていうのは、例えば台本の話で言ったら、「どんなことを面白いと思うか」っていうことが問われているわけで、そこで、「僕はこれが面白いと思う!」と打ち出すわけだ。

日常生活もそうで、常に「どういう場をつくりたいか」「どういう文化を広めたいか」「どんな人生にしたいか」っていうことが問われる。会った人に元気にあいさつするのか、無言で通りすぎるのか。スマホをいじるのか、外に出るのか。一瞬一瞬、自分のあり方が問われ続けている。

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夜がまた来るよ

老人ホームでバイトをはじめて、ようやく人間の一生の最初から最後までを見た、あるいは経験したことになり、人間っていうのがどんなものか、すごくざっくりではあるけれど知ることができた気がする。



祖母も、父も母も、そして僕自身も、そう遠くない未来に、きっとああやって、老いて死んでいくんだろう。



人間の最期を知ったことで、恐怖を感じたってことはあんまりなくて、こうやって終わっていくのかっていうことを目の当たりにする中で、人間ってものの全体像をつかまえることができそうな気がするのです。変に夢みたいな未来を描いたり、抗えない力を無いものにしたりせず、ただ、いろんなことをまっすぐ学べていっている気がするのだよ。


「人間」の全体像が見えたことって、自分にとってはけっこう大きいことで、たとえば自分より年上の人、自分の経験だけじゃ計り知れない人を見ても、「この人も人生の過程の中にいるんだな」って、落ち着いて思える。



生きていくのについてくるどうしようもなさとか、悲しさみたいなのを知ったうえで、「じゃあ自分はこうやって生きていく!」とか「こんな場所を作りたい」って思えたら、説得力が増すというか、思いに根っこが生えてくるような気がするのだよ。



僕はやっぱり人間っていうものに関わって生きていきたいなって思う。まだまだ不自由だけど、きっと、どこかで自由になれる日が来るさ。


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一歩、外へ。

人と関わるうえで思ったことがあるので、書こうと思う。

僕の中には、いつも色んな気持ちがある。

ざっくり描くと、たとえばこんな感じ。
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自分の中にある、混沌とした気持ちを丁寧に見つめ、受け入れていくことで、自分と気持ちの間にちょっと距離が生まれ、自分の気持ちに無自覚にふりまわされている状態から、自分の中にあるものが整理されて腑に落ち、新たに歩き出せるフラットな状態になるのだ。

近しい人に気持ちを聴いてもらったり、思ったことを日記を書いたりすることを通じて、僕はずいぶん自分に正直になり、自由になったと思う。




しかし!
正直が大事だからって人と接する時、このありのままのボワァ~っとした気持ちを羅列しても相手に分かりやすく伝わらなかったり、自分の気持ちを正直に言うことで相手をキズつけてしまったりするのです。相手がカウンセラーならともかく、フツーの人に対してこれをしても真意は伝わりづらいのです。

元気な自分でいるために自分に正直なのはとても大事なこと。でも、普段人と関わるうえでは、どうしたら相手と気持ちよくいられるかをふまえたうえで、自分の中にある一部の気持ちにのっかり、エネルギーをもってそれを打ち出していくことが同じくらいとっても大事なことだと思うんだ。

目の前に不安な人がいたら、相手はきっとそのことに気をとられて疲れてしまうだろう。
関係や場にフィットした気持ちに「正直に」のっかり、それを意識的に打ち出すことはリードや支援や健全な場づくりのための大切な核心だと思った。

人間を味わって、大人になっていくのだあ。

もう、8月がそこまで。

「デザイン」っていうと、オシャレで、ちょっとムズカシイ響きにきこえるな。

「やりかた」っていうとカンタンな気がする。


たとえば、重い荷物を持つとき、背骨を曲げて腕を伸ばした状態(身体の重心と荷物の重心が遠い状態)で荷物を持ちあげようとすると、腰に負担をかけて痛めてしまうことがある。一方、荷物を身体に引き寄せて持ち、背筋をまっすぐにして、そのまま立ち上がるようにして持ちあげると軽く持てて腰に負担がかかりにくい。

 材料は何も変わっていないんだけれど、それらの使い方、やりかたを変えることで機能や性質や効果などが大きく変わる。デザインの持つ力の核心ってここだと思う。

 

で、心構えや意識の部分のデザインを変えると、ものの見え方が大きく変わってくる。この頃は自分を客観的な視点で見ることで、会話、演劇、場づくりなどなど、いろんな場面で、その時のものの見え方が、自分のことでいっぱいいっぱいになっている時と大きく変わることに気づいていっているよ。

話は変わるけど、こういう意識のデザインの変更を重ねながら大人の感性は子供の感性から離れていくのかなあ、と思う。どんどん変わっていって、成長したいなと思うけど、子供たちの気持ちに共感できる自分のままでいたいなあ。


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